歴史再発見

旧南郷洗堰・大津市南郷

旧南郷洗堰・大津市南郷

基本情報
名称 旧南郷洗堰
URL http://www.aquabiwa.jp/(水のめぐみ館アクア琵琶公式サイト)
文化財指定等 平成21年度近江水の宝選定、平成14年土木学会選奨土木遺産
所在地 大津市南郷
電話番号 077-546-7348(水のめぐみ館アクア琵琶)
営業時間 9時~17時(入館は~16時30分)※水のめぐみ館アクア琵琶
定休日等 水のめぐみ館アクア琵琶の休館日については公式サイトをご確認ください
料金 無料
※平成22年11月現在

~日本の近代治水事業のシンボルともいえる存在~

河岸に残る一部残る旧南郷洗堰の遺構。背後に見えるのは大日山。大日山開削を断念した行基は、山に大日如来を祀り、大日山に手をつけると祟りが起こると言い残したという。上・下流住民の対立を見越して、大日山を破壊することをタブーにしたかったのだろう。

河岸に残る一部残る旧南郷洗堰の遺構。背後に見えるのは大日山。大日山開削を断念した行基は、山に大日如来を祀り、大日山に手をつけると祟りが起こると言い残したという。上・下流住民の対立を見越して、大日山を破壊することをタブーにしたかったのだろう。

 琵琶湖から唯一流れ出る河川、瀬田川。琵琶湖から流れ出て大阪湾に至るまでの間に、宇治川、淀川と名前を変えて流れ下るこの川は、古くから東西交通の要衝でもあり、京都、大阪の利水と水運を担う、いわば「近畿地方のライフライン」のような存在だった。
 一方、その水はけの悪さから、大雨が降ると行き場を失った水が琵琶湖に滞留し、湖水面の上昇で沿岸が浸水するなど、近江の国の人々は「水込み」と呼ばれる浸水被害に悩まされていた。琵琶湖沿岸の「水込み」被害をなくすことは、人々にとって昔から変わらぬ切実な願いであったと同時に叶わぬ夢のような話でもあった。

 明治時代になると、琵琶湖の水害と下流域の水害を同時に軽減する狙いで、近代的な治水技術を駆使した南郷洗堰の建設が始まり、明治38年(1905年)に竣工した。南郷洗堰の完成は、琵琶湖を有する滋賀県だけでなく、宇治川、淀川流域にあった京都府、大阪府の治水利水事業に大きな影響を与えたといわれている。

明治時代、地元住民だけが洗堰の上を通行することが許されていたという。平成14年(2002年)、洗堰の歴史的価値が認められ、土木学会選奨土木遺産に選ばれた。

明治時代、地元住民だけが洗堰の上を通行することが許されていたという。平成14年(2002年)、洗堰の歴史的価値が認められ、土木学会選奨土木遺産に選ばれた。

 琵琶湖には一級河川だけで118本、支川も含めると400以上もの河川が流入している。その一方、琵琶湖から流れ出る川は唯一瀬田川のみ。たった1本しかない流出河川であるにもかかわらず、瀬田川の川底には琵琶湖から流れ出る土砂に加え、瀬田川に合流する大戸川が運ぶ砂礫が溜まり、川の疎通能力が極端に低かったという。上古の時代より、平城京や寺院造営のための木材切り出しなどで禿山になっていた田上山(たなかみやま)からは、大量の土砂が大戸川に流れ出し、「水七合に砂三合」などと例えられていたほどだった。
 瀬田川の水はけの悪さゆえ、雪解けや台風の季節には琵琶湖の水位が上昇し、沿岸が浸水被害に見舞われることがたびたびあった。有史以前より水害に苦しめられていた琵琶湖周辺の人々の懸案は、瀬田川の川底を浚渫し、流出水量の拡大を目指すことにあった。
 奈良時代、全国各地を遊行しながら民衆救済事業に尽力した行基は、瀬田川の「川ざらえ」(浚渫)を初めて指揮。その際、瀬田川に張り出し、川幅を狭くしていた大日山の開削によって川の流量を増やそうと試みたが、下流の氾濫を恐れて断念した。その後の記録は定かではないが、江戸時代には5回ほど大規模な「川ざらえ」が行われている。なかでも、天明年間(1781~1788年)から天保年間(1830~1843年)にかけて、親子3代にわたって瀬田川の浚渫に尽力した藤本太郎兵衛という庄屋のことは知る人ぞ知る話だ。

全長173mのコンクリート製新洗堰。10門ある水門は遠隔電動操作で開閉できる。堰は現在、国土交通省近畿地方整備局琵琶湖河川事務所によって管理されている。

全長173mのコンクリート製新洗堰。10門ある水門は遠隔電動操作で開閉できる。堰は現在、国土交通省近畿地方整備局琵琶湖河川事務所によって管理されている。

 それほどまでに人々が切望した瀬田川の浚渫と改修。ただ、浚渫によって疎通能力が上がると、琵琶湖沿岸の「水込み」は抑えられるものの、下流域では逆に洪水の危険が高まってしまうことから、下流住民の反対の声は大きかったという。また、江戸幕府は、唯一瀬田川に架かる橋、瀬田の唐橋が何らかの事情で使えなくなった場合には、大戸川と瀬田川の合流付近の浅瀬を歩いて渡ることを代替措置として想定していた。古来、この浅瀬が合戦時に利用されてきたことを重視していた幕府は、浅瀬が朝廷に献上する魚を獲るヤナ場「供御瀬」(くごのせ)であったことを盾に浚渫をなかなか許可しなかったといわれる。その上、浚渫によって琵琶湖の水位が下がると、琵琶湖に面している膳所城や彦根城の防備が弱まるとの懸念があり、住民らのたびたびの請願にもかかわらず瀬田川の浚渫工事にはあまり乗り気ではなかったようだ。

疎通能力毎秒700立方mという新洗堰。1992年(平成4年)にはバイパス水路も新設された。

疎通能力毎秒700立方mという新洗堰。1992年(平成4年)にはバイパス水路も新設された。

 明治時代になっても上・下流の対立は収まらず、この問題を解決することは困難に見えた。だが、繰り返し起きる浸水・洪水の被害はすさまじく、特に明治29年(1896年)に起きた大水害では、多数の死傷者行方不明者のほか、浸水家屋約58391戸、浸水面積約40000 haという大被害を受け、浸水日数は237日にも及んだ。
 この年、河川法が制定され、国による直轄治水事業として「淀川改良工事」が始動する。この工事は、内務省技官の沖野忠雄が中心となって上流の瀬田川から下流の淀川まで流域全体を見通した計画を立て、琵琶湖沿岸の浸水被害と淀川流域の洪水被害をともに軽減する目的で始められたものだ。最新の外国製機械を導入し、瀬田川の浚渫と洗堰の建設、巨椋池と宇治川の切り離し、そして新淀川の建設など、それまでには考えられなかった大規模な国策プロジェクトであった。日本の治水事業に大きな足跡を残したオランダ人技師ヨハネス・デ・レイケの案を取り入れ、気候・地形条件など日本の実情に合わせたやり方で計画立案・指揮をしたとして、沖野忠雄の功績は現在でも高く評価されている。

洗堰の脇にある洋風建築の旧南郷洗堰看守場。旧洗堰が役目を終えるまでの約50年間、洗堰を見守り続けた。つい最近までは「水のめぐみ館アクア琵琶」の休憩室として使用されていた。

洗堰の脇にある洋風建築の旧南郷洗堰看守場。旧洗堰が役目を終えるまでの約50年間、洗堰を見守り続けた。つい最近までは「水のめぐみ館アクア琵琶」の休憩室として使用されていた。

 瀬田川の浚渫工事を行えば琵琶湖沿岸の浸水被害は減るが、下流・淀川流域の洪水の危険性が高まる。この利害対立・矛盾を解消するために考え出されたのが、瀬田川洗堰、いわゆる南郷洗堰の建設だった。先に述べたように、瀬田川は大戸川との合流地点の浅瀬のほかに、洗堰の建設予定地のすぐ上流にあった大日山付近で極端に川幅の狭い瀬になっていて、疎通能力に問題があった。そこで、瀬田の唐橋から洗堰を建設する南郷付近までの川底を浚渫するとともに、ダイナマイトを使用して大日山の一部を削り、瀬田川の川幅を100m強にまで拡幅した。瀬田川改修工事は明治33年(1900年)に始まり、洗堰自体は明治35年(1902年)に着工、総工費約252000円をかけて明治38年(1905年)に完成した。
 総延長172.71mのレンガ・石造りの洗堰は、戦前までに造られたレンガ可動堰のなかでは日本最大級の規模を誇った。洗堰には幅2間(約3.64m)の水通し32門が設けられ、各門に長さ14尺(約4.55m)、8寸角(約24cm)の角材を15~17段分一本一本はめこんで流量調節を行う方式であった。当時、この水通し門の開閉操作では、職員が人力手動で角材の上げ下ろしを行っていたため、全閉または全開には相当の時間を費やしていた。昭和に入ってからは石油発動機型のウインチで角材の上げ下ろしをするようになったが、それでも全閉の作業では浮力で沈まない角材をひとつひとつ重しを使って落とし込んでいたため、32門すべてを閉じるのに丸2日、全開には丸1日を要していたという。

瀬田川左岸、旧洗堰の遺構の脇にある「水のめぐみ館 アクア琵琶」の館内。洗堰の歴史に関するパネルや旧洗堰の操作の様子を表した模型展示などがある。

瀬田川左岸、旧洗堰の遺構の脇にある「水のめぐみ館 アクア琵琶」の館内。洗堰の歴史に関するパネルや旧洗堰の操作の様子を表した模型展示などがある。

 南郷洗堰の完成後、明治42年(1909年)には大がかりな浚渫も行われ、瀬田川の疎通能力は以前の4倍にまで高まった。そのおかげで水害は減少し、貯められた水は水道や農業・工業用に供給された。その後、昭和36年(1961年)に現在見られる新洗堰が整備されるまでの約60年間、南郷洗堰は流域の人々の命と大切な財産を守り続けた。新洗堰の完成に伴い、南郷洗堰は役目を終え、両岸にその一部分を残し撤去された。新洗堰の120m上流の緩やかな流れのなかにたたずむ洗堰の遺構を見ると、人々の暮らしの命運を左右していた当時の堂々とした雄姿をしのぶことができるだろう。
 近年、南郷洗堰は、水害の歴史と日本の近代治水の歴史を語る上では欠かせない貴重な記念碑として、その存在感を増している。
(取材日:平成22年6月)

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