歴史再発見

日吉大社境内・大津市坂本

日吉大社境内・大津市坂本

基本情報
名称 日吉大社境内
URL http://www6.ocn.ne.jp/~hiyoshi3/
文化財指定等 日吉大社境内は国指定史跡。西本宮本殿と東本宮本殿は国宝。その他、国の重要文化財17棟
所在地 大津市坂本5-1-1
電話番号 077-578-0009
営業時間 9時~16時30分
定休日等 無し
料金 大人300円、小人150円
※平成23年3月現在

歴史の薫りと荘厳な雰囲気に包まれた「山王さん」

合掌鳥居とも呼ばれる独特の形状をした「山王鳥居」。神道と仏教が融合した山王神道を象徴するといわれており、明治の神仏分離令によって破壊されたが、大正時代に再建された。

 延暦寺と日吉大社の門前町として栄え、古くから北国と京都を結ぶ要衝だった坂本。全国各地からやってきた参詣客が坂本に宿泊し、日吉大社に詣でたあと、延暦寺に向かったと言われている。同時に、坂本は里坊の町でもある。山寺の僧が人里に構える隠居所を里坊といい、日吉大社参道の両側には比叡山で修業した僧が賜った里坊が今も50以上立ち並ぶ。これらの里坊群は穴太衆積みの美しい石垣によって囲われ、重厚感のある風情を醸し出している。

桃山時代から江戸時代にかけて造られた山王七社それぞれの神輿7基は重要文化財に指定されている。

 参道の先にある深い森が、日吉大社の森だ。この地は古くは「日枝(ひえ)」と呼ばれ「日吉(ひえ)」「稗叡」「比叡」とも表記されたが、平安時代中期に「日吉(ひよし)」とも称されるようになったと言われる。比叡山の麓にある日吉大社は、全国3800余りの分霊社、日吉神社、日枝神社、山王神社の総本宮である。東と西の両本宮を中心に、山王二十一社をはじめ数多くの社が今もこの地に鎮座する。八王子山(牛尾山)を含むおよそ13万坪(40万㎡)の広大な境内に、国宝2棟(東本宮本殿、西本宮本殿)と、重要文化財17棟を有している。
 八王子山の頂上近くにある巨石「金大巌(こがのねおおいわ)」は原初的な山岳信仰の対象として古代より崇められていたようで、日吉大社の歴史が始まった地とされている。
 東本宮の祭神は古事記にも記載があり、「大山咋神(おおやまくいのかみ)」という比叡山に鎮座する地主神である。西本宮の祭神は、天智7年(668年)に大津京遷都にあたって、奈良の三輪山・大神神社から勧請した「大己貴神(おおなむちのかみ)」である。この二柱の神、境内全ての神は「日吉大神」と称され、民衆に信仰されていた。その後、桓武天皇の時代に都が平安京に遷ると、日吉大社が京の表鬼門(東北)に当ることから、鬼門除け、魔除け、災難除け、国家鎮護の祈願の社とされるようになった。後朱雀天皇の長暦3年(1039年)には「二十二社」の一社に加えられた。二十二社とは神社の社格の一つで、特に朝廷より重んじられ、国家の重大事や天変地異の時などに朝廷から幣帛(神饌以外の供え物)を奉納された神社である。

写真は大宮橋。かつて大宮と呼ばれ西本宮への経路であることから付けられた名前だ。「大宮橋」「二宮橋」「走井橋」を日吉三橋(ひよしさんきょう)と称する。

 延久3年(1071年)には後三条天皇が行幸し、以降は多くの歴代天皇が行幸している。最も回数多く行幸したのが後白河天皇で、永暦元年(1160年)には京都に新日吉神宮(いまひえじんぐう)を創建し、分霊を祀るほどであった。また日吉大社は土木建築の守護として武家からの崇敬を集め、封ぜられた国と城の鎮護のために分霊さることもあったという。
 日吉大社の大きな転換にかかわったのが、平安時代前期の僧・最澄だ。最澄が比叡山に延暦寺を建立し、天台宗を開く際に、日吉大神を天台宗の守護神、伽藍神(寺院を守護する神)として崇め、延暦寺では大神を「山王」と称するようになった。このことから、日吉大社は仏教と深い関係を持つようになり、「山王神道」とも呼ばれる信仰を派生させる。
 延暦寺の勢力が強大になるにつれ神仏習合の思想もすすみ、日本の八百万の神々は様々な仏が化身として現れた姿、「権現」であるととらえる「本地垂迹」の考え方によって、日吉大社は寺院と同様に扱われるようになった。天台宗が日本の各地に広まると、それに併せて天台宗の鎮守神である山王権現を祀る山王社も各地で建立される。平安時代中期以降に、僧兵たちが神輿や神木を担ぎ、仏神の権威を誇示して集団で朝廷に対して訴えを行うことを強訴というが、延暦寺の僧兵が強訴の時に用いた神輿は日吉大社の神輿である。

社務所前に飼われている神猿(まさる)。「魔去る、勝る」に通じることから、魔除け・必勝の利益があるとされ、西本宮楼門の四隅にも神猿の木像が配置されている。

 そしてもう一人、日吉大社の運命を大きく変えた人物がいる。それが戦国武将・織田信長だ。延暦寺と対立した信長は、元亀2年(1571年)の9月12日に比叡山への総攻撃を行う。信長軍はまず比叡山麓の堅田や坂本に火を放ってから、山に攻め上がったという。「信長公記」には、「九月十二日、叡山を取詰め、根本中堂、山王二十一社を初め奉り、零仏、零社、僧坊、経巻一宇も残さず、一時に雲霞のごとく焼き払い、灰燼の地と為社哀れなれ」と記されているように、日吉大社の以前の建物や神輿などはことごとく焼失してしまった。 信長の死後は、豊臣秀吉がすべて灰燼に帰した社の復興に尽力する。秀吉は幼名が「日吉丸」であること、そしてあだ名が「猿」であることから、「神猿(まさる)」を崇拝する日吉大社に対して特別な思い入れをもっていたようだ。
 徳川家康も関係があり、山王神道を「山王一実神道(さんのういちじつしんとう)」へと発展させた天台宗の僧・天海に帰依し、死後はその教えに従って「権現」(東照大権現)の神号で祀られるようになった。日吉大社の末社「日吉東照宮」に祀られている祭神は、日吉大神と徳川家康、そして豊臣秀吉である。
 日吉を包む深い森には、荘厳な雰囲気が漂う。日吉大社権禰宜の矢頭英征さんは「私自身も、この森にいると強いパワーを感じます。当社に来ていただき自然の力を肌で感じ、それに感謝する気持ちを持ってもらえたらうれしいです」と、自然を敬い尊ぶ気持ちを忘れないでほしいと語った。
(取材日:平成23年1月28日)

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