生活再発見

瀬田の唐橋・大津市瀬田

瀬田の唐橋・大津市瀬田

基本情報
名称 瀬田の唐橋
URL
文化財指定等 近江八景「瀬田の夕照(せきしょう)」。平成21年度近江水の宝選定
所在地 大津市瀬田1丁目
電話番号
開館時間
定休日等
料金
※平成22年9月現在

~歴史の節目を見守り続けてきた「瀬田の唐橋」~

「瀬田の夕照」

「瀬田の夕照」

 滋賀県民なら知らない人はいないであろう近江八景「瀬田の夕照」。その夕景の美しさで歌川広重(安藤広重)の浮世絵「近江八景之内」の「瀬多夕照」に描かれ、全国的にも名を知られた「瀬田の唐橋」のことだ。日本三古橋や日本三名橋のひとつにも挙げられるこの橋は、古代から戦略上の重要な位置にあり、大友皇子と大海人皇子(後の天武天皇)が戦った壬申の乱を始め、ここを舞台に歴史に名を残す合戦が幾度となく繰り広げられてきた。そのため、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われたほどだ。
 滋賀を代表する風景のひとつになっている「瀬田の唐橋」。日本の歴史の重大な局面に重要な役割を担ってきたこの橋には、あまりにも多くの物語が秘められている。

室町時代の連歌師「宗長」の歌、「もののふのやばせ(矢橋)の舟は早くとも急がば廻れ瀬田の長橋」が、「急がば廻れ」の語源となったことは有名だ。矢橋から大津へ船に乗ったほうが早いが、突風の危険があることから唐橋を使ったほうが良いという意味だ。

室町時代の連歌師「宗長」の歌、「もののふのやばせ(矢橋)の舟は早くとも急がば廻れ瀬田の長橋」が、「急がば廻れ」の語源となったことは有名だ。矢橋から大津へ船に乗ったほうが早いが、突風の危険があることから唐橋を使ったほうが良いという意味だ。

 宇治川にかかる宇治橋、かつて淀川にかかっていた山崎橋と並び、日本三古橋のひとつに数えられる「瀬田の唐橋」。古くは「勢多橋」、「勢田橋」などとも表され、琵琶湖から瀬田川にかかっていた唯一の橋だ。今も昔も東国から京の都へ入るにはここを通るほかはなく、歴史上、この橋の名前は何度も登場する。この橋の歴史を紐解けば、日本の歴史が見て取れるといっても過言ではない。それほどまでにこの橋を取り巻く歴史は、時代が大きく変わる節目と密接に関わりあっている。
 琵琶湖から流れ出る唯一の川、瀬田川は、西国から東国へ向かうには必ず渡らねばならない難所のひとつだった。

「瀬田の唐橋」を架橋した山岡景隆の居城、瀬田城址。現在はきらびやかなマンションが建っている。

「瀬田の唐橋」を架橋した山岡景隆の居城、瀬田城址。現在はきらびやかなマンションが建っている。

 史実として確認できるような橋が瀬田川に登場するのは672年、その頃の日本を二分する戦い、壬申の乱が起こったとき、「勢多橋」は大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場になったと日本書紀に記されている。その当時の橋の東端は、いまある橋の位置より80mほど下流、現在の瀬田橋龍王宮秀郷社と雲住寺がある辺りにあったとされる。昭和63年(1988年)、瀬田川浚渫工事に伴う発掘調査で、古代の橋脚台がその当時使われていた土器などの遺物とともに発見されたことから、橋の存在が明確になったという。
 その後、瀬田の唐橋は、奈良、平安、鎌倉、室町時代と続く歴史の中で、幾多の重要な戦乱の舞台となった。
 天正10年(1582年)、本能寺の変で織田信長を倒した明知光秀は、その勢いで安土城へ向かおうとした。しかし、瀬田城城主の山岡景隆が唐橋を焼き落したため、光秀の居城であった坂本城(大津市坂本)へ一旦引き返し、橋の復旧を待ったようだ。ここで光秀が足止めされていなかったとしたなら、その後の歴史はまた違ったものになっていたかもしれない。

瀬田の唐橋の下に住んでいた龍神に頼まれて、俵藤太秀郷が三上山の大百足を退治したという伝説にちなんで建てられた龍王宮(左)と秀郷社(右)。両社の間に立つ太い柱は古い唐橋の橋脚で、龍神の霊として祀られている。

瀬田の唐橋の下に住んでいた龍神に頼まれて、俵藤太秀郷が三上山の大百足を退治したという伝説にちなんで建てられた龍王宮(左)と秀郷社(右)。両社の間に立つ太い柱は古い唐橋の橋脚で、龍神の霊として祀られている。

 羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、柴田勝家と戦った賎ヶ岳の合戦、家康と戦った小牧・長久手の合戦、小田原城北条攻めの際に、瀬田の唐橋を渡って戦いに出向いている。
 慶長5年(1600年)、天下分け目の戦いと呼ばれた関ヶ原の戦いでも、瀬田の唐橋にまつわる話が残っている。西軍についた筑後・柳川の武将、立花宗茂は東軍・京極高次が籠城する大津城攻略に立ち会ったが、関ヶ原で西軍が負けたことを知り、大坂城へ退散しようとしていた。そのとき、東軍の追っ手を食い止めるために、部隊の一部が例によって瀬田の唐橋を破却しようとした。それを知った宗茂は、昔から京を守るためにこの橋を落としたからといって勝ったためしはなく、ただ民が困るだけだと諭したという。この話を聞いた家康は、敵軍ながらあっぱれと感心したともいわれる。
 関ヶ原の戦いの後、いかに瀬田の唐橋が重要であるかを悟った徳川家康は、瀬田の唐橋を監視するために、大津城を廃して膳所城を築城した。大阪冬の陣、夏の陣においても徳川軍は唐橋を渡って参陣している。

擬宝珠(ぎぼし)にある銘などから天正年間以後、文久元年(1861年)に至るまでの間に16回の架け替え工事が行われたことがわかっている。かつての「唐橋」に付いていた擬宝珠が現在の橋にも使われている。

擬宝珠(ぎぼし)にある銘などから天正年間以後、文久元年(1861年)に至るまでの間に16回の架け替え工事が行われたことがわかっている。かつての「唐橋」に付いていた擬宝珠が現在の橋にも使われている。

 ほかにも、上洛の夢を果たせなかった武田信玄が「瀬田の唐橋に我が風林火山の旗を立てよ」と臨終の際に言ったという話も有名だ。このことからも、瀬田の唐橋が戦国武将たちにとってどれほど重要な戦略上の地点であったかが窺える。
 これら幾多の戦乱や地震、洪水などの災害で橋が損傷を受けるたびに、瀬田の唐橋は修繕、架け替えが繰り返されてきた。その度に少しずつ橋の架かる位置も変わっていったと推測される。一般的に現在の位置に建てられたのは信長による架橋のときといわれているが、実際のところ現在の位置に建てられるようになったと確認できているのは近世に入ってからのことのようだ。江戸時代を通じて、瀬田の唐橋は江戸と京都を結ぶ東海道の重要な橋として人々の生活を支え続けた。
 日暮れ前の「瀬田の夕照」の美しい風景を眺めながら、唐橋にまつわる数々の歴史に思いを馳せるのも、また一段と感慨深いものがある。
(取材日:平成22年6月)

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