田川カルバート・長浜市
田川カルバート・長浜市
名称 | 田川カルバート |
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URL | – |
文化財指定等 | 平成20年度近江水の宝選定、旧虎姫町指定文化財 |
所在地 | 長浜市 |
電話番号 | – |
開館時間 | – |
定休日等 | – |
料金 | – | ※平成22年9月現在 |
~日本の土木史上重要な「川の立体交差」工事~

「カルバート」と聞いて、それが何のことかわかる人はそう多くはないだろう。簡単に言い換えるなら「カルバート」とは、いわゆる「暗渠」のことを指す。長浜市内を流れる田川は、「姉川の合戦」で知られる姉川の支流、高時川の川底の真下を流れている。「川の下に川が流れている」という光景は一見すると不思議に思えるが、これには流域住民と川との間の長いかかわり合いの歴史がある。
奥伊吹の山々の水を集めて流れ出る姉川、滋賀県と福井県の県境に源を発し、姉川に比して「妹川」の別名をもつ高時川、どちらの川もその源は豪雪地帯のなかにあり、春には雪解け水が川の水位を押し上げる。「田川カルバート」のある田川は、かつてこの水量豊かなふたつの川と旧びわ町の落合付近で合流していた。姉川と高時川では土砂が積もって川底が高くなり、梅雨や台風の大雨の際、合流点で水がぶつかり合い、行き場を失った水が水流の弱い田川へと逆流した。そのため、周辺流域はたびたび浸水の被害に遭っていたという。

江戸時代の末、度重なる被害に悩まされていた月ヶ瀬、田、唐国、酢の4つの村は、田川への逆流を防ぐ目的で「逆水門」を設置し、新川を造って高時川の川底に伏樋(排水用トンネル)を通すという計画を立てた。だが、下流の村々の猛反対に遭い、難工事でもあったため計画は思うようには進まなかった。文久元年(1861年)、それでもようやく、高さ1.2m、幅2.1m、長さ125mの伏樋と新川が完成し、田川の水を琵琶湖へと導水できるようになった。ただ、その苦労にもかかわらず、木製の水門や伏樋はすぐに腐ってしまい、その威力は長くは続かなかったという。

明治時代になると、お雇い外国人として全国で活躍していたオランダの技師、ヨハネス・イ・デレーケによって、レンガと石積みによる田川の排水路トンネルの構想が提案された。これが川と川が立体交差する「カルバート」といわれるもので、明治16年(1883年)に着工し、明治18年(1885年)、高さ1.95m、幅3m、長さ109mの「アーチカルバート」が完成した。このカルバートの完成によって洪水は以前とは比べ物にならないほどに激減したという。その後もカルバートは何度も改修され、昭和41年には、現在見られるコンクリート製のものが造られた。
ちなみに、明治時代にレンガ造りで造られた旧カルバートは、現在のカルバートから高時川にかかる錦織橋をはさんだ反対側に位置していた。橋の上からは、清んだ水が流れる高時川の川床に、現在のカルバートの天井部にあたる石敷きが見えている。
(取材日:平成22年4月)