歴史再発見

藤樹墓所・高島市安曇川町

藤樹墓所・高島市安曇川町

基本情報
名称 藤樹墓所
URL
文化財指定等
所在地 高島市安曇川町上小川190(玉林寺境内)
電話番号 0740-32-0556(玉林寺)
拝観時間
定休日等
料金 無料
※平成22年10月現在

~儒式の墓所に眠る “近江聖人”中江藤樹~

享保6年(1721年)、諸国に散らばる門下生同士が協力しあい、墓域の柵を整備したという。

享保6年(1721年)、諸国に散らばる門下生同士が協力しあい、墓域の柵を整備したという。

 江戸時代、徳川幕府は幕藩体制を支える屋台骨の思想として、儒学「朱子学」を採り入れた。一方、朱子学とは一線を画す儒学「陽明学」といわれる教えもあった。陽明学とは、中国・明代に思想家の王陽明によって唱えられた考え方で、学問的な姿勢にこだわる朱子学に対し、仕事や日常生活のなかに理を求めるという実践を第一義とした。
 この陽明学の教えを、日本で身分のわけ隔てなく唱えた人物が、近江・高島にいた。その徳の高さから、後に“近江聖人”と呼ばれた儒学者、中江藤樹(1608~1648年)だ。“日本陽明学の祖”とされる中江藤樹は、高島市安曇川町上小川にある天台真盛宗玉林寺に眠る。国内では珍しい儒式にのっとった墓塚が、風情ある町並みが残る上小川の集落のなかに静かにたたずんでいる。

中江藤樹の墓所がある玉林寺。この写真左手に墓がある。

中江藤樹の墓所がある玉林寺。この写真左手に墓がある。

 中江藤樹は、江戸時代初めの慶長13年(1608年)、近江国高島郡小川村(現・高島市安曇川町上小川)で、農家を営む中江吉次の長男として生まれた。藤樹の祖父で、伯耆・米子藩(現・鳥取県米子市)の藩主加藤貞泰の家臣だった中江徳左衛門吉長は、自身の息子・吉次が小川村に残ったため、幼少のころから聡明だった藤樹に家督を譲ろうと決心、藤樹を米子へと連れ立ってゆく。藤樹わずか9歳のときのことだ。すぐ翌年、藩主が伊予・大洲藩(現・愛媛県大洲市)へ転封されることとなり、藤樹も養父となった吉長についてそのまま大洲へと移住した。
 幼少のころからすでにその秀でた才覚を認められていた藤樹。なんと11歳で儒教四書のひとつ「大学」を読むほどの非凡さで、その後も独学で朱子学を学び、17歳で四書を読破したという。元和8年(1622年)に祖父吉長が没すると、15歳で家督を継ぎ、100石の禄高を得ることとなった。
 藤樹25歳のとき、父吉次が亡くなった後もひとり郷里にいる母を不憫に思い、近江へ帰省し、大洲へ呼ぼうと説得を試みた。母は先祖代々の土地と墓を守ることこそ勤めとこの藤樹の提案をかたくなに拒んだ。その帰路の船中、藤樹は突然の喘息発作に襲われる。後に藤樹を絶命に追いやった喘息は、このときに初めて発症したのだった。
 寛永11年(1634年)、藤樹27歳のとき、母への孝行を果たしたいという強い思いに加え、藤樹自身の体調がすぐれないということもあって、藩の職を辞して帰郷しようと辞職願を出す。だが、藤樹の優秀な頭脳を頼りにしていた藩にとっては、その願いは聞き入れられるものではなかった。それでも募る思いに逆らうことはできず、藤樹はついに脱藩を決意する。当時、脱藩をするということは、主君に対する忠義を忘れた、まさに裏切り行為以外の何ものでもなかった。祖父の代に高められた主家との信頼を蹴ってまでふるさとの近江へ帰ろうとした藤樹の思いとは、一体どのようなものだったのだろうか。
 ふるさとの小川村に帰った後の藤樹は、それまでの反動か、ほとんど毎日何もせずに無為に過ごしていた時期があったという。それでも日々の生活の糧は必要なことから、酒や炭の小売業を営んだり、米貸しをしたりしながら、学問の探求とそこから得られた知恵を人々に教え伝えるような暮らしを始める。このときの酒売りの方法がユニークで、酒壷と杓を置きっぱなしにしておいて、客自身が計って代金を箱に入れるというものだった。これは、孟子の性善説を地で行くような藤樹ならではの考え方を実践したものといえるだろう。

寛文5年(1665年)年に藤樹の母が、宝永6年(1709年)には三男の常省が葬られている。

寛文5年(1665年)年に藤樹の母が、宝永6年(1709年)には三男の常省が葬られている。

 それまで朱子学に重きを置いていた藤樹だったが、37歳のとき、王陽明の「陽明全書」に触れて以降、「致良知」と「知行合一」こそが人の求める道とする考え方に到達する。「致良知」とは、人には天性からの良心が備わっているもので、それはたゆまぬ努力によって磨かれていくべきものとする考え方のことをいう。「知行合一」とは、知識と行為は一体となってあるもので、どんなに正しくても行いが伴っていなければ意味をなさないとする陽明学の真髄となる思想だ。ときに、朱子学は普遍的秩序を重視し、陽明学は個人の徳の向上を目指すことを好むので自己の正義に重きを置くことになり、日本では反体制的な人物が陽明学者のなかから多く出た。朱子学の「知先行後」に対し、陽明学の「知行合一」はその教えの根底にある「万物一体の仁」(万物は同根ですべてはつながっている)という根源的平等思想にも通じる。
「善をなすは耕耘のごとし」。善行とは一朝一夕にできるものではなく、畑の作物のように時間をかけて育て上げるもの。中江藤樹が奉じた思想を一言で表したような言葉だ。
 小川村で清く正しく徳のある暮らしを静かに送る藤樹の周りには、次々に教えを乞うものがやってきた。武士はもちろん、商工人、そして農民にいたるまで、身分の上下、貴賎を超えて「致良知」の教えは広く伝えられた。儒学以外に医学にも通じていた藤樹は、村医者の役割も担っていたといい、ときには医学を教授することもあったという。
 ところで、「藤樹」という名は号で、私塾「藤樹書院」を開いた自宅敷地内に藤の老樹があり、その藤の樹の下で教えを説いていたことから、門下生たちに「藤樹先生」と呼ばれるようになったといわれている。門下生には、陽明学者として数々の偉業を成しながら江戸幕府の監視下に置かれ、不遇のうちに生涯を閉じた熊沢蕃山のほか、多くの儒者たちがいた。藤樹が去って200年近くの時が流れた後も、貧民救済を説き、天保8年(1837年)に大坂で乱を起こした陽明学者・大塩平八郎が、藤樹書院に何度も足を運んでいる。

上小川集落の落ち着いた町並み。

上小川集落の落ち着いた町並み。

 慶安元年(1648年)の秋、藤樹は喘息の持病が原因で41歳という若さでこの世を去ってしまう。近江に帰郷してから十数年にわたり、人々に「良知の学」を伝えてきた“聖人”、中江藤樹。彼の逝去に村人はおおいに落胆したというが、その教えは村人に代々受け継がれ、いまでも地域の人々は親しみと敬愛の念を込めて「藤樹さん」と呼んでいる。
 藤樹の亡骸は、門人たちによって藤樹書院に近い玉林寺に埋葬された。墓は約8m四方の方形の敷地があり、生垣と石造りの斎垣(いがき)に囲まれて神聖な雰囲気が漂う。日本ではほとんど見ることがない儒式の墓で、鮮やかな芝生に彩られた敷地内に土盛りの塚があり、その前に各人の墓碑が建つ。敷地内にある墓石は3基。一番奥に中江藤樹のものが、右奥には藤樹が敬慕してやまなかった母の墓が、また右手前には藤樹の三男・常省(じょうしょう)の墓が家族のその強い絆を示すかのようにたたずんでいる。
 藤樹が世を去って400年近くもの時が流れた。当時とはまったく世情の異なる現代にあっても、その教えは色あせるどころか、ますます輝きを増しているように思われる。混迷を極める現代にこそ、藤樹が辿り着いた「致良知」の教えが私たちに光明をもたらしてくれるものと信じたい。
(取材時期:平成22年6月)

関連タグ一覧