歴史再発見

井伊直弼公供養塔と長野主膳の墓

井伊直弼公供養塔と長野主膳の墓

基本情報
名称 井伊直弼公供養塔、長野主膳の墓、村山たか女の碑
URL
文化財指定等
所在地 滋賀県彦根市里根町232(天寧寺境内)
電話番号 0749-22-5313(天寧寺)
開館時間 9時~17時(冬期は9時~16時30分)
定休日等 無休
料金 拝観料大人400円、小中学生200円
※平成22年9月現在

~直弼が「プライベートの時間」を過ごした寺に遺品が埋葬される~

天寧寺の名は直中の戒名「観徳院殿天寧宏輝大居士」から付けられたもので、直中の子である直弼は父を敬ってか、「萩の寺」と呼んでいたようだ。

天寧寺の名は直中の戒名「観徳院殿天寧宏輝大居士」から付けられたもので、直中の子である直弼は父を敬ってか、「萩の寺」と呼んでいたようだ。

 天寧寺の境内には彦根藩13代藩主・井伊直弼の供養塔と、直弼の参謀を務めた長野主膳の墓、二人を陰で支えた村山たか女の碑が建てられている。
 井伊家の菩提寺と言えば、彦根の清涼寺と江戸の豪徳寺だが、なぜ天寧寺に井伊直弼の供養塔が建てられたのか。その理由を知るには、天寧寺が井伊家にとってどのような存在だったかを理解する必要がある。
 天寧寺の前身は、初代彦根藩主井伊直政が実母の供養のために建てた宗徳寺である。直政が生まれた頃、彼の一族は今川家に使えていたが、祖父は桶狭間の戦いで戦死し、父・直親は今川家当主の氏真に謀反の疑いで処刑されてしまう。ほかの一族も暗殺や戦によって次々と倒れ、跡を継げるのは直政のみとなったが、当時まだ2歳の子供だったために、生母と次郎法師という名の親類の女性に守られて育つこととなる。次郎法師は井伊直虎と名を変え、直政が成長するまでの中継ぎとして井伊家の当主になり、生母は今川家家臣と再婚する。命を狙われる直政は、生母と直虎の大変な苦労の末に天正3年(1575年)、徳川家康に見出されて小姓として取り立てられることとなった。

萩などが生い茂っており、見にくいが「長野主膳之奥津城」と刻まれている。奥津城とは、神道式のお墓のこと。

萩などが生い茂っており、見にくいが「長野主膳之奥津城」と刻まれている。奥津城とは、神道式のお墓のこと。

 その後、数々のめざましい戦功を挙げて家康の重臣となり、関ヶ原の戦いののちに彦根に入った直政は、苦労して自分を育ててくれたにもかかわらず、他家に嫁いでしまったため表向きに弔うことのできなかった実母を祀るのを目的に創建したのが、生母の戒名から名付けた宗徳寺である。以降は、井伊藩主の菩提寺の隠居寺として存在し、一般の者が参拝することのできない井伊家のプライベートな場所となっていく。
 時は移り、井伊家中興の名君といわれる11代藩主・直中が、過失で腰元の若竹と初孫の命を奪ってしまった事件など、さまざまな出来事の懺悔と供養のために、京都の大仏師・駒井朝運に五百羅漢を彫らせることとなった。それにあたり、城下にあった宗徳寺を佐和山の中腹に移築して、文化8年(1811年)に開山されたのが、現在の天寧寺である。宗徳寺は、歴代藩主たちにとって他者の目を気にせずに心を安らげることのできる場所だったが、天寧寺も同じ性質を受け継いでいた。直中の十四男・直弼は、不遇な青年時代に足しげく天寧寺に通い、充実したひと時を過ごしていたようだ。

村山たか女の碑。小説『姦婦にあらず』では天寧寺が直弼と恋人・たか女の密会の場になっている。

村山たか女の碑。小説『姦婦にあらず』では天寧寺が直弼と恋人・たか女の密会の場になっている。

 そして兄の死によって家督を継いだ直弼は第13代藩主となり、さらに将軍継嗣やアメリカとの問題などで混乱している江戸幕府の大老に就任し、辣腕を振るった。直弼は自らの政治に反対するものを厳しく取り締まったのが「安政の大獄」であり、その反発や恨みが「桜田門外の変」へとつながっていく。
 安政7年(1860年)3月3日、直弼の行列が江戸城桜田門の近くにさしかかったとき、水戸藩、薩摩藩の浪士によって襲撃され、直弼は暗殺されてしまう。しかし、当時の政治情勢的に直弼が暗殺されたことは隠さなければならず、表向きには「病死」とせざるを得なかった。桜田門外の血染めの土や衣類などは四斗樽4杯に詰めて暗殺の痕跡を消し、人目につかぬように裏街道を通って彦根に持ち帰られた。しかし次は、これら「暗殺」の証拠ともいえる遺品をどこに埋めるかが問題になった。そこで一般人が立ち入ることのできない、井伊家の私的な寺である天寧寺がその地に選ばれたのである。直弼自身が青春時代に愛した場所であることも理由の一つだろう。
 こうして、彦根の天寧寺境内に土や衣服類が埋葬され井伊直弼供養塔が建てられると、直弼の「彦根の墓」という扱いになったのである。

五百羅漢の寺として有名な天寧寺。さまざまな表情、仕草の羅漢が並ぶ。

五百羅漢の寺として有名な天寧寺。さまざまな表情、仕草の羅漢が並ぶ。

 直弼をサポートした長野主膳は直弼が死んだあと、藩内でも疎まれる存在となり失脚して、文久2年(1862年)に斬首・打ち捨ての刑となった。主膳の遺体はそのまま刑場に放置され、10年後の明治5年(1872年)に白骨化した遺体を直弼の供養塔の横に埋葬することができた。しかし明治の世でも、打ち首にされた者を正式に弔うことはできず、「歌碑」という形で境内に碑が置くにとどめられた。主膳の百回忌にあたる昭和37年(1962年)にようやく、「長野主膳の墓」があらためて建てられたのだ。直弼と主膳、二人を影から助けたといわれる村山たか女の碑は、直弼供養塔と長野主膳の墓の間に昭和48年(1973年)につつましやかに建てられた。
 お寺の方にお話をうかがうと「直弼公にしても長野主膳にしても、堂々と供養することができるようになったのは戦後、つい最近のことです。彼らには国賊、売国奴といった批判が常に付きまとい、世間がそれを許しませんでした」とのことだった。そして「生きている時代はもちろんのこと、死後もなお世間の評価など、立場や身分に翻弄されたと言ってもいい直弼公や主膳が、『ひとりの人間』として時を過ごしたこの天寧寺に供養されているのは、何とも運命的だと思います」と語ってくださったのが印象的だった。
(取材日:平成22年9月13日)

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