歴史再発見

北畠具行卿墓・米原市清滝

北畠具行卿墓・米原市清滝

基本情報
名称 北畠具行卿墓(きたばたけともゆききょうのはか)
URL
文化財指定等 国指定史跡
所在地 米原市清滝
電話番号
営業時間
定休日等
料金
※平成23年2月現在

京極道誉によって処刑された「元弘の変」の中心人物

北畠具行卿墓。基礎の部分に「貞和三年」(1347年)と刻まれている。

 国の史跡に指定されている、鎌倉時代末期の公家・北畠具行(きたばたけともゆき)の墓は、中山道柏原宿の近く、丸山という285mの山の頂上にある。柏原宿は中山道六十九次の内六十番目の宿場町で、古くから栄え、東西13町(約1.5km)にもおよび、中山道の中でも大規模な宿場町だったと伝えられている。JR東海道本線柏原駅のすぐ近くが柏原宿の中心部で、そこから西に向かい、途中で柏原中学校がある北西方向へ角を曲がって道を進む。そのまま柏原中学校を越えて行くと道が3つに分かれるので、ため池がある西向きの山際の道を歩く。ため池と山の間の道を少し進むと「北畠具行卿墓」の標識とそこへ向かう山道の入り口が出現する。参道は登りやすいように整備されており、山頂にたどりつくのはそれほど困難ではない。山頂の北畠具行卿墓は、地元の人々によって供養がなされている。

この墓を立てたのは京極道誉の家臣で、具行の首をはねた、田児六郎左衛門だといわれている。

 北畠具行は、村上源氏の流れを汲む名門北畠家の分家にあたる。北畠家初代の北畠雅家の孫で、北畠宗家第4代・北畠親房は具行の従兄弟の子供という関係だ。後醍醐天皇の側近として活動し、従二位権中納言まで昇進。公家の中でも国政を担う最高幹部の「公卿」という高い身分の貴族だった。
 元徳2年(1330年)に宗家の親房は後醍醐天皇の皇子・世良親王急死の責任を取って出家すると、宗家はまだ幼少の顕家が継ぐこととなり、具行はその後見人となった。
 鎌倉幕府への反感を募らせていた後醍醐天皇は、幕府打倒の計画を巡らせるが、正中元年(1324年)、これが発覚して、天皇の側近らが処分される「正中の変」が起こる。続いて、元弘元年(1331年)、またも後醍醐天皇が企てていた討幕計画が側近の密告により、幕府に知られてしまう。幕府の軍勢から逃れるため、御所を脱出した後醍醐天皇は京都の笠置山で挙兵。後醍醐の皇子・護良親王や、河内国の楠木正成もこれに呼応して挙兵する。しかし足利高氏(後の尊氏)、新田義貞らを擁する幕府の討伐軍との戦力差は大きく、後醍醐天皇は幕府に捕えられることとなった。これが「元弘の変」と呼ばれる政変だ。

山頂へ向かう道の途中に立つ石碑と案内板。

 後醍醐天皇の側近であった具行は、この元弘の変に中心的存在として参加。しかし計画が失敗したため、具行も幕府軍に捕えられてしまう。鎌倉へと護送されることとなった具行。この護送を命じられたのが、京極氏五代目・京極高氏(道誉)である。道誉は元弘の変において、幕府軍の一員として従軍し、事後処理等の任務にあたった。捕まった後醍醐天皇が隠岐島に流されたときに警護と護送を担当したのも道誉とされている。
 元弘2年(1332年)6月19日、護送の途中に幕府の命によって京極家の菩提寺・清瀧寺徳源院のほど近く、柏原の丸山で斬首された。具行が処刑された地に建立された宝篋印塔が、この北畠具行卿墓である。

参道は手入れされており、頂上まで迷うこともないだろう。

 護送任務の途中、具行の人となりと才能を惜しんだ道誉は幕府に助命嘆願を行い、その間、京極氏の領地である清瀧寺に具行を約1カ月間留め置いたともいわれている。だが道誉の願いは聞き入れられず、幕府の命令で具行の処刑執行が決まってしまう。道誉が自分を一度も罪人扱いせず丁重にもてなしてくれた心遣いに対して、具行は処刑前に感謝の意を述べたとも伝わる。
 清瀧寺徳源院境内の「京極家墓所」にも、ひっそりと北畠具行の墓が立っている。既存の秩序や権威に対して反抗的だった道誉が、上流貴族の具行とどのように心を通わせたのか。そんなことを思いながら墓の前で手を合わせるのも、墓参ラーの楽しみの一つだ。
(取材日:平成22年12月17日)

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