歴史再発見

浅井三代の墓・長浜市平方

浅井三代の墓・長浜市平方

基本情報
名称 浅井三代の墓
URL
文化財指定等
所在地 長浜市平方町872(徳勝寺境内)
電話番号 0749-62-5774
営業時間
定休日等
料金 本堂内拝観料200円
※平成23年2月現在

~小谷城主・浅井氏3代を祀る菩提寺~

左から長政公、亮政公、久政公の宝篋印塔。

 長浜駅から南に約10分、平方町に徳勝寺はたたずんでいる。この寺院は小谷城主浅井氏の菩提寺であり、本堂には豊臣秀吉が播州から持ち帰った鎌倉時代のものと伝わる薬師如来像や、浅井氏にかかわる位牌、浅井三代の像や浅井長政夫婦像、亮政夫妻像などの寺宝が多く安置されている。

正面に見えるのが徳勝寺の本堂。

 徳勝寺は、現在の滋賀県長浜市にあたる東浅井郡湖北町下山田村で創建された曹洞宗の寺院で、「医王寺」と号した。永正15年(1518年)、浅井亮政の小谷城築城に伴って、龍山株源和尚を中興として山麓の小谷城下清水谷へと移され、菩提寺となったのである。浅井氏が織田信長によって滅亡された際、この地の支配をゆだねられた豊臣秀吉が小谷城を廃城とし、天正3年(1575年)今浜(長浜)に新たな城「長浜城」を築城した。徳勝寺もその際、清水谷から長浜城下に移り、浅井亮政の諡号「徳勝寺殿」にちなんで徳勝寺に改称。慶長11年(1606年)、内藤信成が長浜城に封ぜられた際、長浜城下の田町(現朝日町)に土地を与えられて移され、寛文12年(1672年)、井伊直孝の時代に現在の地に移るなど、何度も移転を繰り返した。
 現在の本堂は、享保3年(1718年)年に皇室と幕府、そして彦根藩主だった井伊直惟の助力によって建立されたものだ。当時の中御門天皇は長政に正二位大納言と白銀50枚、白緞子紋章付幕を下賜、以後皇室より年忌ごとに香料を与える慣例となった。幕府および井伊家などの保護は徳川秀忠の正室となった浅井長政の三女・お江(お江与)の影響があるといわれる。幾度も移築を繰り返しているため、現在の寺院の建物自体に浅井三代を偲ぶものは少ないが、本堂南側の妻飾が小谷城の時代のものと伝わるなど、一部に当時を思わせるものも残っている。

浅井長政とお江と伝わる夫婦の木像。

 浅井氏はもともと湖北地方の豪族で、京極家の家臣であった。しかし、初代浅井亮政の時代に勃興し、小谷城を築城。勢力を次第に増し、遂に京極家の執権となって湖北の治世を行うに至った。亮政の没後も二代久政が家督相続。三代長政は信長の妹・お市の方を娶った。その後「姉川の合戦」で信長の家臣である秀吉に小谷城を攻められ、敗色濃厚と見た久政、長政は妻子を城から出した後に自害。浅井家自体は滅亡したものの、小谷城を脱出した三人の子女のうち、長女は豊臣秀吉の側室・淀殿となり、次女・お初は京極高次の正室となった。三女・お江は徳川二代将軍徳川秀忠の正室となり、その息女・東福門院は後水尾天皇の皇后として、明正天皇の母となった。三代で滅亡してしまった浅井家の子女が、皇室、豊臣、徳川へとそれぞれ縁付いたことで、浅井家の血筋が続いていくことになったのだ。

「ドラマの影響なのか、参拝してくださる方が増えてきました。浅井氏と長浜の歴史に触れていただけると嬉しいですね」とご住職は語る。

 浅井三代の墓があるのは、本堂よりも右奥方向。浅井長政、初代の亮政、二代久政の宝篋印塔3基が並んで建っている。昭和37年に市内のお寺・延長坊にあったものを、浅井家顕彰会が移して今に至る。浅井氏を偲ぶ人々が訪れて花を手向けていくため、墓前から花が絶えることは少ないという。すぐ後方にまで、建築物が迫っている環境ではあるが、墓所の周りはひっそりと静かであった。
 徳勝寺住職の河合正博さんは、滅亡後不遇を囲った浅井氏について想いを馳せる。「2011年のNHK大河ドラマ『江~姫たちの戦国』で浅井長政の遺した三人の娘が描かれるなど、やっと浅井氏に光が当たるようになってきました」と喜ぶ。これを機に、浅井家の名誉が回復できればいいとの話も飛び出した。浅井氏三代の墓については「誰でも気軽に足を運んで手を合わせてほしい」と。本堂内の見学については、事前に連絡すれば対応可能とのことだ。
(取材日:平成22年12月8日)

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