歴史再発見

佐々木道誉公墓・犬上郡甲良町

佐々木道誉公墓・犬上郡甲良町

基本情報
名称 佐々木道誉公墓
URL
文化財指定等 木造大日如来坐像、絹本著色佐々木高氏像は国指定重要文化財
所在地 犬上郡甲良町正楽寺4(勝楽寺境内)
電話番号 0749-22-5313
開館時間
定休日等
料金
※平成22年11月現在

~婆裟羅大名、佐々木道誉が眠る寺~

佐々木道誉の墓。道誉の墓は勝楽寺のほかに、京極家の菩提寺・清滝寺徳源院(米原市清滝)にも存在する。

佐々木道誉の墓。道誉の墓は勝楽寺のほかに、京極家の菩提寺・清滝寺徳源院(米原市清滝)にも存在する。

 婆裟羅(ばさら)大名の代表格といえば、南北朝時代に頭角を現した佐々木道誉を思い浮かべる人が多いのではないだろうか。北近江の守護、佐々木氏支流京極家の当主として足利尊氏に従い、室町幕府開幕に多大な功績を残した道誉。一方、それまでの権威を嘲笑し、常識の枠にとらわれない派手な振る舞いが、動乱期の不安定な世情に生きる人々の心をとらえた。
 時代の寵児として世に婆裟羅の粋を見せつけた道誉は、犬上郡甲良町にある慶雲山勝楽寺の静かな境内にひっそりと眠る。

現在見られる勝楽寺の山門は、背後の山にあった勝楽寺城の城門を移築したものとされる。天明年間(1781~1788年)に移築されるまでは山中にあった。山の頂には、道誉の館を守るために築かれたという勝楽寺城の主曲輪跡が今も残る。

現在見られる勝楽寺の山門は、背後の山にあった勝楽寺城の城門を移築したものとされる。天明年間(1781~1788年)に移築されるまでは山中にあった。山の頂には、道誉の館を守るために築かれたという勝楽寺城の主曲輪跡が今も残る。

 足利尊氏のブレーンとして活躍した高師直、土岐頼遠と並び、婆裟羅三傑のひとりとしてその名を馳せた佐々木道誉。南近江の守護を担った佐々木六角氏と同じ「佐々木」の姓をもつものの、佐々木氏から分家して北近江の守護として君臨した京極氏の出であるため、京極道誉の名としても知られる。また、「道誉」という名は法名で、本来は「高氏」といった。
 鎌倉時代末期の永仁4年(1296年)※に生まれた道誉は、鎌倉幕府の御家人であり、北近江の守護であった京極家の第5代当主としてその重責を担った。元亨2年(1322年)には京都の治安維持を司る「検非違使」(けびいし)にも任ぜられている。その後、鎌倉幕府倒幕の気運が高まると、足利尊氏とともに歴史の表舞台に登場し、室町幕府開幕に大きな役割を果たした。このように政治・軍事の上で、華々しい活躍をした道誉だが、その一方、等身大の道誉の姿は、当時、“婆裟羅”と呼ばれていただけあって、自由奔放、豪放磊落なものであった。武芸のみならず、茶道、華道、香道、能楽などの文化芸術にも通じていた道誉は、闘茶に、連歌にと武家にあってはならぬほどにのめりこんでいた。その装い、立ち振る舞いも派手で、人々の目には奇異なものと映るほどに華美な姿で京の町中を練り歩いたといわれる。

山門の軒瓦に見える佐々木京極家の「四つ目結紋」。

山門の軒瓦に見える佐々木京極家の「四つ目結紋」。

 そんな道誉の姿を伝える逸話に、「太平記巻第二十一」に収められた「妙法院焼き討ち事件」がある。北朝・暦応3年(1340年南朝・興国元年)の10月、道誉の子、秀綱の家臣が鷹狩りの帰路、京都・妙法院の敷地に入り、紅葉の枝を折ってしまった。すぐさま院の僧が出てきて家臣らを懲らしめて小枝を取り上げたが、この話を聞いた道誉は怒り狂い、なんと総勢300もの兵をもって妙法院を焼き討ちした。妙法院は、当時、「山門」と呼ばれた比叡山延暦寺天台宗の門跡寺院(皇族ゆかりの寺院)で、院主は北朝の光厳天皇の実弟、亮性法親王が務めていた。道誉の天皇家の威厳をも省みぬ無礼な行動に、「山門」の僧の怒りは頂点に達し、皇居に神輿を担いで強訴を始めたという。このため、道誉の盟友であった足利尊氏もどうにもしがたく、道誉・秀綱父子を上総(千葉県)への配流とした。
 だが、この配流も実際は山門の怒りをそらすための形だけのもので、父子は流罪となって東国へ向かう道中にもかかわらず、宿場に到着するたびに酒宴を開き、遊女を侍らすなど、流罪の身にあるまじき行動をとったという。しかも、その際に身にまとっていたのが猿の皮で繕った衣装だった。猿といえば、延暦寺の鎮守、日吉大社で祀られ、崇拝されていた存在で、そのことを承知の上で猿皮の衣装を羽織っていたわけだ。結局、父子は流罪地の上総どころか、京を出てすぐ、近江国分寺の先で姿をくらまし、翌年にはいつの間にか京の都に戻っていたというから、道誉の婆裟羅ぶりが見て取れる。

境内には、国の重要文化財で藤原時代の作といわれる秘仏、大日如来像が安置されている。境内の脇に大池があり、勝楽寺が信長の焼き討ちに遭った際、池の水のおかげでこの大日如来像ほか六脚門、大日堂などが焼失から免れた。

境内には、国の重要文化財で藤原時代の作といわれる秘仏、大日如来像が安置されている。境内の脇に大池があり、勝楽寺が信長の焼き討ちに遭った際、池の水のおかげでこの大日如来像ほか六脚門、大日堂などが焼失から免れた。

 道誉41歳のとき、現在の犬上郡甲良町に臨済宗東福寺派の僧、雲海和尚を招いて慶雲山勝楽寺(現在は建仁寺派)を開き、そこに館を構えた。その後、応安6年(1373年)に78歳で生涯を閉じるまで勝楽寺に隠棲した。
 勝楽寺は閑静な正楽寺の集落の奥にあり、道誉の墓は勝楽寺境内の最奥にある。そのたたずまいは、婆裟羅大名として奔放な人生を歩んだ道誉のイメージからはほど遠く、静寂のなかにあって簡素な趣を見せている。あれだけ世を騒がせた男がこれほど静かで落ち着いた場所で最後を迎えたのかと思うと、より深い感慨がしみじみとこみ上げてくる。
※徳治元年(1306年)の説もある
(取材日:平成22年8月)

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