歴史再発見

木曽義仲の墓と松尾芭蕉の墓・大津市馬場

木曽義仲の墓と松尾芭蕉の墓・大津市馬場

基本情報
名称 木曽義仲の墓、松尾芭蕉の墓(いずれも義仲寺境内)
URL
文化財指定等 義仲寺境内全域が国指定史跡
所在地 大津市馬場1-5-12
電話番号 077-523-2811
営業時間 3月~10月は9時~17時、11月~2月は9時~16時
定休日等 月曜休(祝日はのぞく)
拝観料 大人200円、中学生150円、小学生100円
※平成22年11月現在

~義仲寺に眠る木曽義仲と俳聖・松尾芭蕉~

義仲寺の門

 木曽義仲こと源義仲と松尾芭蕉。両者とも学校で必ず教わっているほどの日本の歴史上、重要な人物。そんな偉人たちの墓が、実は滋賀県に、しかも2人揃ってあるなどということは、地元滋賀の人にもあまり知られていないのではないだろうか。ところが、この二人、大津市内の旧東海道沿いにある寺院、義仲寺に、仲良く隣り合せに眠っている。
 周辺はマンション、商業ビルなどの開発が進み、寺の存在はそのなかに埋もれそうな様子だが、俳人たちにとってはいわば聖地のようなところ。全国各地から多くの俳句ファン、歴史ファンたちがここを訪れている。

木曽義仲の墓

 JR琵琶湖線、京阪電鉄膳所駅から琵琶湖のある北方面へ数百m下っていくと、ショッピングセンターなどが建ち並ぶ湖岸道路に出る。その直前に湖岸道路と平行に走る細い通りがある。この道が江戸時代の五街道のひとつ、旧東海道で、左手に折れたところに源義仲と松尾芭蕉が眠る「義仲寺」がある。このあたりは、古くは粟津ヶ原と呼ばれ、琵琶湖に面した美しい景勝の地だった。
 平家物語のなかで「朝日将軍(旭将軍)」の名で登場する源義仲は、治承4年(1180年)、信濃の国(現在の長野県)で平氏討伐を賭けて挙兵する。寿永2年(1183年)、越中の国(現在の富山県)で繰り広げられた「倶利伽羅(くりから)峠の戦い」に勝利して以降、その快進撃はとどまることを知らず、ついには入京することに成功する。その後、後白河法皇から都の守護を任されるほどの勢力を誇ったが、義仲軍による都での狼藉の悪評などで後白河法皇とは対立。また平氏との対決だけなく、源頼朝、義経兄弟との対立も表面化し、宇治川、瀬田の両戦いで頼朝の命を受けてやってきた源範頼、義経軍に敗北すると、ほどなく、この粟津の地で討ち死にしたとされている。
 その後、粟津の地に葬られた義仲を供養するという一人の尼僧が現れ、義仲の墓に寄り添うように草庵を結んだ。この尼僧こそ、義仲の側室であった巴御前(ともえごぜん)の後身とされ、この尼僧の死後、草庵は「無名庵」(むみょうあん)と呼ばれるようになったという。鎌倉時代の終わりまでには、義仲寺は、巴寺、木曽塚、木曽寺、義仲寺などと呼ばれるようになっていたが、戦国時代には相当に荒れ果てていたようだ。近江守護で宇多源氏の流れをくむ佐々木氏は、源氏の誇るべき大将の墓が荒れているのはしのびないと、この寺を再建したと伝わる。

義仲の墓のすぐそばに眠る松尾芭蕉

 江戸時代の貞享年間(1684年~1688年)には大修理が行われた。このころ、松尾芭蕉は何度も義仲寺を訪れ、無名庵に滞在している。元禄7年(1694年)10月12日(旧暦)、大阪で客死した芭蕉は義仲の墓のそばに永眠したいという遺言を残していたが、その遺言どおり、すぐに門人らによって義仲の墓の隣に手厚く埋葬された。芭蕉の命日は「時雨忌」といわれ、毎年、11月の第2土曜日に法要が営まれている。

趣きある境内の庭園

 義仲寺には、義仲の墓に並ぶ芭蕉の墓のほか、巴塚と呼ばれる巴御前の塚、義仲の側女であった山吹御前(やまぶきごぜん)の塚、芭蕉の門人で膳所藩士の菅沼曲翠の墓などもある。そのほか、小さな境内には、芭蕉の有名な辞世の句、「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」の句碑をはじめ、数々の門人らの句碑とともに、無名庵、芭蕉翁座像を祀る翁堂(おきなどう)、義仲寺本堂で義仲公像などが納めてある朝日堂、寛政3年(1791年)に創設された粟津文庫などの建物がひっそりとたたずむ。
 うっかりしていると、過ぎゆく時間のことも忘れてしまうほどに落ち着いた趣の義仲寺。訪れてみるとこぢんまりとした寺だが、苔むす庭に鹿威しの音が響き、まるでここだけ時間が止まっているかのような、ゆったりとした時間が流れてゆく。

関連タグ一覧