織田信長公本廟・近江八幡市安土町
織田信長公本廟・近江八幡市安土町
名称 | 織田信長公本廟 |
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URL | – |
文化財指定等 | – |
所在地 | 近江八幡市安土町下豊浦(安土城跡内) |
電話番号 | 0748-46-7049(安土町観光協会) |
入山時間 | 9時~16時(季節によって変動あり) |
定休日等 | 無休 |
料金 | 500円 小人100円(安土城跡入山料) | ※平成22年9月現在 |
~夢と願いを込めた地で眠る、信長の墓所~

安土城跡内の、伝二の丸跡には「織田信長公本廟」がある。信長の墓所や霊廟は数多くあり、供養塔なども含めると相当な数が日本国中にある。だが、安土城という信長の思いが込められた城跡にあるこの廟には、特別な感情や思いを抱いて参りに来る人も多い。
尾張国古渡城主・織田信秀の子として生まれた信長は、少年時代は奇抜な行動や格好をしていたために「大うつけ(馬鹿者、奇人)」と呼ばれていた。だが青年期になると弟との家督争いを経て尾張を支配するに至り、転機となる永禄3年(1560年)の「桶狭間の戦い」以降、天下統一へ邁進していく。
信長が安土城に入ったのは、築城が開始されてから3年後の天正7年(1579年)。その頃には天主(天守)などの主な部分が完成していた。交通の要所であり、しかも城を建てるのにふさわしい形状をした安土山に築かれた城は、当時の常識を覆すものだった。城全体は石垣で覆われ、天主が高くそびえ立つ。宣教師のルイス・フロイスは、「天主は私たちの塔より気品があり壮大な建築だ」と語り、さらに階層ごとに色が塗り分けられ、最上階は全て金色だったと伝えている。
瓦にも金箔が張られ、派手好みの信長らしいセンスともいえるが、改革者・合理主義者でもあった信長は外観によって見る者に与える効果を十分に理解していた。また自分が天下統一したあとに、城は政治的な役割へ変化することをすでに構想していたとも考えられる。この城を自分の理想的な地にしようという信長の思いが込められた大城郭だったのだ。
しかし天正10年(1582年)6月2日、中国遠征の準備のために本能寺に滞在していた信長を、秀吉への援軍を命じられていたはずの明智光秀が急襲。わずかな手勢しか置いていなかった信長は光秀の率いる軍勢との戦力差を埋められず、信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自害したと伝えられている。
本能寺の変が起きたとき、安土城の留守を任されていたのは家臣の蒲生賢秀だったが、息子の氏郷とともに信長の妻子らを保護して自分たちの本拠地である日野城に立てこもってしまう。
こうして安土城は光秀の支配下に置かれ、光秀が城代として入城するが、羽柴秀吉との「山崎の戦い」で光秀が敗北。6月14日に天主と本丸周辺が焼失してしまう。この出火の原因はいまだ明らかになっていない。
安土城の中心部分は焼けてしまったものの、二の丸などは無事だったため、織田家の後継者を主張するために、織田宗家を継いだ信長の孫の三法師(織田秀信)や次男の信雄が入城し、城として利用されていたものの、天正13年(1585年)に廃城となった。
安土城の「織田信長公本廟」は二の丸の場所に、信長の太刀や烏帽子、直垂(ひたたれ。武家の礼服)などの遺品を埋めて弔うために立てられた。建立したのは秀吉だといわれるが、その秀吉は「小牧長久手の戦い」で信雄を屈服させ、安土城が廃城になった天正13年に関白に就任する。
前代未聞の偉大な城は、織田家の終焉とともに驚くぐらいあっけなく姿を消してしまった。
着工からわずか10年ほどで廃城となってしまった安土城。信長はこんなことを予想していただろうか。だが、この時代の激流も戦国時代の一面だといえるのかもしれない。
現在、「織田信長公本廟」は立入禁止になっているものの、門の外からその姿をうかがうことができる。
(取材日:平成22年9月16日)