歴史再発見

京極家墓所・米原市清滝

京極家墓所・米原市清滝

基本情報
名称 京極家墓所
URL http://tokugenin.maibara.jp/(清瀧寺徳源院HP)
文化財指定等 墓所全域が国指定史跡
所在地 米原市清滝288(清瀧寺徳源院境内)
電話番号 0749-57-0047
拝観時間 9時~16時(但し予約があれば~17時まで)※団体の場合は要事前連絡
定休日等
料金 300円、小中学生は無料※座敷利用は500円(拝観料含む)、抹茶400円
※平成23年2月現在

~京極氏歴代の墓がずらりと並ぶ墓参(はかまい)ラー必見の地~

墓所上段にずらりと並ぶ京極氏歴代の墓。

 京極家初代・京極氏信が京極氏の菩提寺として弘安9年(1286年)に創建したのが、清瀧寺徳源院だ。寺の名は氏信の法号「清瀧寺殿」が由来で、比叡山延暦寺に属する天台宗の寺で山号を霊通山と称する。
 中山道の柏原宿の近くにある清瀧の集落から、西に向かっていくと清滝山の山麓にある清瀧寺徳源院にたどりつく。この寺の境内に京極家一族の墓が並ぶ区域があり、墓所全域が国指定史跡となっている。

墓所下段には廟の中で祀られているものもある。

 氏信の父、佐々木信綱は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げた承久の変に、幕府軍として加わった。官軍は少ない兵力を美濃と尾張に分散させてしまった結果、大敗を喫し、残る全兵力をもって宇治・瀬田に布陣。宇治川で官軍と幕府軍が激突することとなった。官軍は雨によって増水した宇治川の橋を落として防戦し、幕府軍は攻撃することができなかったが、信綱が先頭となって強引に渡河し、敵陣の突破に成功。勝敗を決するきっかけとなった。
 承久の変の活躍などにより、近江ほか数ヶ国の守護に任じられていた信綱は、4人の息子に近江を分けて継がせた。長男の重綱が大原氏、次男の高信が高島氏、三男の泰綱が総家の六角氏、四男の氏信が京極氏の祖となった。「京極」は、高島郡、伊香郡、浅井郡、坂田郡、犬上郡、愛知郡の六郡とともに、京都の京極高辻にあった館を受け継いだことに由来する。本家である六角氏は織田信長によって滅ぼされてしまったが、京極家は江戸時代にも大名家として続き、現在にいたっている。

中興の祖とされる高次の墓は石廟の中に祀られている。

 第5代・高氏(道誉)は婆娑羅(バサラ)大名として有名な人物だ。鎌倉時代から南北朝時代に活躍した武将で、足利尊氏らとともに鎌倉幕府を倒し、室町幕府創立にかかわった。その後は家督争いや家臣であった浅井氏に追い落とされるなどして、湖北の支配権を失って衰退する。第19代・高次は本能寺の変で信長を討った明智光秀の味方についたことで立場を危うくするが、妹(姉という説もある)の竜子が秀吉の側室となったことで許されたという。その後は戦の功で大溝城を与えられて大名となり、浅井長政の娘・初を正室とするとさらに出世を重ね、近江大津城6万石までになる。関ヶ原の戦いでは、高次は非常に難しい決断を迫られる。初の姉、茶々(淀殿)は豊臣秀吉の側室となり、妹の江は徳川秀忠の正室となっていたのだ。高次は、初めは西軍に味方すると思われたが、途中で東軍へ寝返り、大津城に篭もって西軍の大軍勢と篭城戦を行った。西軍の勢力を釘づけにして関ヶ原に向かわせなかった功を家康に評価され、若狭小浜8万5千石に加封される。高次によって、京極氏は再び勢力を取り戻したのだ。清瀧寺は高次を京極氏中興の祖と位置づけ、高次の墓を中心に祀っている。

位牌堂内に安置された高次の座像。

 江戸時代に入ると、京極氏は最大26万4千石までになるが、第21代・高和の時に讃岐丸亀藩6万石へと転封されてしまう。高和の息子、第22代高豊が寛文12年(1672年)に領地の一部と、祖先の墳墓があった清滝の地を交換して寺の復興をはかり、丸亀藩の初代藩主だった父・高和の院号「徳源院殿徳英道達」から徳源院と改称した。このとき各地に散らばっていた祖先の墓を集めて整備したものが、現在の「京極家墓所」である。
 土塀で囲われた墓所は上下2段に区画され、上段に初代・氏信を筆頭に第18代・高吉にまでおよぶ18基、下段に第19代・高次を中心に歴代当主や分家(多度津藩)の墓が14基並ぶさまは壮観で、墓の大小は京極家の栄枯盛衰をそのまま表現しているといわれている。鎌倉時代から江戸後期のものまでそろった宝篋印塔により、それぞれの時代の宝篋印塔の特徴や変遷が分かるなど、30基以上の宝篋印塔を一度に比較して見ることができるという点でも貴重な資料である。
(取材日:平成22年12月17日)

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