歴史再発見

アーネスト・フェノロサの墓・大津市園城寺町

アーネスト・フェノロサの墓・大津市園城寺町

基本情報
名称 アーネスト・フェノロサの墓
URL http://www.shiga-miidera.or.jp/treasure/garden/03.htm(三井寺HP)
文化財指定等
所在地 大津市園城寺町246(三井寺法明院内)
電話番号 077-522-2238(三井寺)
拝観時間
定休日等
料金 寄付(100円)
※平成22年9月現在

~日本の伝統美を再認識させてくれた恩人~

フェノロサの墓。仏教徒そのままに梵字が刻まれた墓石。

フェノロサの墓。仏教徒そのままに梵字が刻まれた墓石。

 美術、芸術に疎いという人でも、「フェノロサ」という名前は聞き覚えがあるはず。明治以降の急激な近代化=脱亜入欧化のなかで、日本の伝統美術を荒廃から救い出してくれた恩人ともいえる。とにかく、中学校の歴史教科書にも登場するほど有名なフェノロサだが、滋賀県民であっても彼のお墓が大津の山すそにあるということを知っている人はそう多くないのではないだろうか。フェノロサは、三井寺法明院境内の大きな杉の木立ちに覆われた墓地にひっそりと眠っている。
 アーネスト・フランシスコ・フェノロサ。アメリカ・マサチューセッツ州のセーラムという町に生まれたフェノロサが日本へやってきたのは、富国強兵のため、日本全体が欧米に習って近代化を目指していた明治時代の初めのころ。フェノロサも明治時代を通じて日本に3000人ほどが招かれたという、いわゆる「お雇い外国人」のひとりだった。明治11年(1878年)、フェノロサは大森貝塚を発見したことで知られる動物学者モースの薦めもあって、哲学の教授として東大に招かれている。彼のもともとの専攻は美術とは程遠いものだったが、ハーバード大学を首席で卒業した後、ボストン美術館の絵画スクールに通っていることから、もともと芸術に深い関心があったことが伺われる。

フェノロサの墓がある法明院。

フェノロサの墓がある法明院。

 来日後のフェノロサの活躍はめざましい。日本の美術にほれ込んだフェノロサは、美術品などを収集するかたわら、いかに日本独特の芸術がすばらしいかを説いて回ったという。だが、その頃の日本は誰もが欧米化を受け入れていた時代。その影響で平安、中世、江戸時代にわたって高められてきた日本の伝統美術はないがしろにされていた。近代化とは江戸時代までの権威、文化、風習をことごとく否定することから始まっていたからだ。とくに、日本の国家的仕組みを支えるイデオロギーとして、神道は仏教と引き離され、国家神道へと再編される。これを契機に、寺院仏閣を徹底的に破壊する「廃仏毀釈」が行われた。と同時に、名家といわれた家柄の者も「四民平等」となった明治時代には、屏風や先祖伝来の家宝などを二束三文で売り払うほかないというケースも続出していた。
 日本人自身の手によって日本の高尚な芸術が破壊、散逸されてゆく・・・そんな状況に危機感を抱いたフェノロサは、やがて、文部省の職員となり、岡倉天心らとともに京都、奈良などの古寺の調査に乗り出す。彼が調査した寺院の数は60以上、収蔵されている美術品なども詳しく調査した。この調査がもととなり、1897年には寺社仏閣などを文化財に指定することで保護の意識を高めようとする「古社寺保存法」(後の国宝保存法、現在の文化財保護法)という法律が制定されている。

杉の木に囲まれた法明院の墓所。この奥にフェノロサの墓はある。

杉の木に囲まれた法明院の墓所。この奥にフェノロサの墓はある。

 フェノロサは、古いものを見つめ直して再評価するこうした活動のなかで、さらに日本で新しい日本美術が生まれることも大切だと考えるようになっていった。そんな思いから、やる気と目標を見失いかけていた日本画家たちを勇気づけるために、日本の芸術にしかない「美」のすばらしさを懸命に説いて聞かせた。さらに、岡倉天心とともに現在の東京芸術大学の前身にあたる、東京美術学校の設立にも重要な役割を果たしている。
 日本人以上に日本の美を愛し、日本人が忘れかけていた「温故知新」を文字通りに行って近代日本の芸術発展の礎となったフェノロサ。日本好きが昂じた彼は、ついには日本でキリスト教徒から仏教徒へと改宗してしまったほどだ。キリスト教には最後の審判があり、そこで少数の天国へいくものと大勢の地獄へ落ちるものとがはっきりとわかれてしまう。仏教はそれを選ばず、誰もが等しく慈悲に包まれて仏になることができる。その包容力こそが仏教を信じるにいたった理由だとフェノロサは後に語っている。この思いを知れば、フェノロサの日本文化への理解がどれほど深いものだったかがわかるだろう。

墓の外には英語の墓標が。

墓の外には英語の墓標が。

 二度目の訪日の際、自身を仏の道へと導いてくれた桜井敬徳律師が住職を務めていた三井寺の法明院にしばらく滞在した。山すその小高い場所にある法名院には、琵琶湖と三上山を借景とした美しい池泉回遊式の庭園もあり、フェノロサはその庭園からの眺めを随分と気に入っていたそうだ。日本を離れた後もその思いは変わらず、「墓を琵琶湖の見える法明院に」との遺言を生前に残し、実際、1908年にロンドンで客死したフェノロサの分骨が、翌年、遺言通りに法明院に葬られた。
 法明院は、三井寺から少し離れた森のなか、東海自然歩道を1kmほど歩いたところにある。江戸時代の建築という書院の左奥、フェノロサが愛した琵琶湖の風景を左手に見ながら進むと、杉の木立ちに囲まれた墓所に着く。木製の日本語の案内板と英文で書かれた石碑の奥、静寂のなかにフェノロサの墓がひっそりとたたずむ。その傍らには、フェノロサの親友で、みずからも日本の美術にのめりこんだ医学博士、ビゲロー博士の墓がその仲の良さを示すように並んで建っている。
(取材日:平成22年5月)

関連タグ一覧