歴史再発見

石田三成群霊供養(佐和山観音)・彦根市古沢町

石田三成群霊供養(佐和山観音)・彦根市古沢町

基本情報
名称 石田三成群霊供養(佐和山観音)
URL
文化財指定等
所在地 滋賀県彦根市古沢町大洞1104(龍潭寺参道)
電話番号 0749-22-2777(龍潭寺)
拝観時間
定休日等 無休
料金
※平成22年9月現在

~佐和山の麓、井伊家ゆかりの寺院参道に立つ三成の供養碑~

右が「石田三成群霊供養」の碑。左が佐和山観音。

右が「石田三成群霊供養」の碑。左が佐和山観音。

 戦国時代、佐和山城は近江の要衝を守る拠点城郭として、非常に重要視されていた。佐和山城が歴史の表舞台に登場するのは、元亀元年(1570年)に行われた浅井氏・朝倉氏連合軍との「姉川の戦い」である。敗走した浅井勢の磯野員昌が8ヶ月にわたり籠城し、のちに「難攻不落の城」と称えられた。その後、丹羽長秀、堀秀政、堀尾吉晴と引き継がれ、五奉行筆頭の石田三成が城主になったことから分かるように、佐和山城は歴史上重要な拠点であった。
 佐和山城の始まりは、鎌倉時代の初期に近江守護職(軍事指揮や行政を行い国を守る役職)だった佐々木定綱の六男・時綱が、佐和山の麓に構えた館だと伝えられている。

石田三成の座像も、供養碑のすぐ近くにある。

石田三成の座像も、供養碑のすぐ近くにある。

 有能な武将たちが城主を務める間に佐和山城は次第に整備され、天正18年(1590年)に佐和山城の主となった三成の時代には本丸以外にも二の丸、三の丸などができており、山の下に作られた二重の堀の内側には侍屋敷や足軽屋敷、町屋などを備えた近世的な城下町として整備されていったようだ。「三成に過ぎたるものがふたつあり、島の左近と佐和山の城」 と詠われている。有能な武将として広くその名を届かせていた島左近と立派な佐和山城は、三成にはもったいないという意味だ。
 その後、三成が実質的なトップだった西軍が、家康率いる東軍に関ヶ原の戦いで敗れ、佐和山城に入ったのが、徳川四天王の一人で井伊彦根藩の藩祖となる井伊直政である。しばらくの間は井伊家の居城として使用されたものの直政は新城建設を計画。しかし着手する前に直政は死去し、遺志を継いだ直継によって彦根山に新城の建設が開始される。その際に佐和山城は解体され、石垣は彦根城の石材として運び出されてしまった。また、佐和山城が豊臣方残党の象徴となることを恐れ、建物などは徹底的に破壊されたと言われている。一説には、山そのものの一部を削り取ったとも伝えられる。現在、佐和山城の跡にはほとんど何もなく、石垣や土塁などの一部が現存するのみだ。

参道の竹垣は、龍潭寺垣と呼ばれている。

参道の竹垣は、龍潭寺垣と呼ばれている。

 佐和山城跡へ向かうハイキングコース登り口にある、井伊家とゆかりの深い禅寺・龍潭寺。その龍潭寺に向かう竹垣の参道に、三成の座像と「佐和山観音」と呼ばれる観音像、そして石田三成群霊供養と刻まれた石碑が建っている。佐和山観音や三成の座像は昭和に入ってからのものだが、昔から龍潭寺では三成の慰霊を行っていたという。

龍潭寺が門跡寺院と同格の扱いであることを示す、五本筋塀。格の高い龍潭寺だからこそ、石田三成の供養が許されたとも考えられる。

龍潭寺が門跡寺院と同格の扱いであることを示す、五本筋塀。格の高い龍潭寺だからこそ、石田三成の供養が許されたとも考えられる。

 井伊家と関係の深い龍潭寺が、なぜ敵側である三成を供養するのか。それには政治的な配慮が絡んでいたと思われる。井伊家が彦根の支配者となったのちも、佐和山の人々は温情施政を行った三成を名君として陰で称えて、当時のことを懐かしんだ。それを知っていた井伊家側は、民衆の協力なしには彦根での繁栄はないとして、彼らの気持ちを掴むために三成の供養を龍潭寺で行うことにしたのではないかと推測される。龍潭寺が選ばれたのはこの地が三成ゆかりの佐和山城の跡地だったからだが、井伊家の監視がしっかりと行き届く場所であったのも理由の一つだろう。
 供養塔のある辺りは、三成の有名な「残紅葉」の歌、「散り残る紅葉はことにいとおしき秋の名残はこればかりぞと」に詠まれる紅葉の名所で、晩秋には龍潭寺の境内にある300本の紅葉が真っ赤に染まるという。覚悟を決めて戦いに挑んだ三成の切ない心情が伝わってくる、見事な紅葉だ。
(取材日:平成22年9月13日)

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