歴史再発見

観音寺城跡・近江八幡市安土町

観音寺城跡・近江八幡市安土町

基本情報
名称 観音寺城跡
URL
文化財指定等 国指定史跡
所在地 近江八幡市安土町石寺
電話番号
入山時間
定休日等
料金
※平成22年12月現在

~中世五大山城の一つに数えられるスケールの大きな山城~

 湖東平野のほぼ真ん中、JR琵琶湖線を挟んで安土山の東にある標高432メートルの繖山。この山に築かれた城が「日本五大山城」にも数えられる観音寺城である。観音寺城は、鎌倉時代から戦国時代まで近江守護をほとんど独占した名門、佐々木六角氏の居城だった。
 近江国の蒲生郡では古墳時代から奈良・平安時代にかけて古代豪族・佐々貴山君の一族が勢力を持っていたが、のちに宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする宇多源氏・佐々木氏に取り込まれて同化、もしくは駆逐されていったと見られている。

 平安時代末期以降、佐々木氏が勢力を拡大するきっかけとなったのは、佐々木秀義が源頼朝の挙兵に応じて参加した源平合戦だ。この合戦で大きな戦功を挙げたことにより、長男の定綱は近江国惣追捕使に任じられ、以後400年にわたって佐々木家の総領家が代々近江守護を勤める。定綱の孫に当たる4人の男子が所領を分割して独立、三男の泰綱は総領家として江南6郡を与えられ、京都の六角東洞院に屋敷があったことから六角氏を名乗るようになった。なお四男の氏信は、大原庄と田中郷を除く江北6郡を与えられ、京都の京極高辻に屋敷があったために京極氏と称するようになった。
以降、総領家の内紛や各地のさまざまな勢力との対立から、強力な支配を打ち立てることはできなかった。
 観音寺城がいつごろ築城されたのかはわからないが、歴史の中に初めて登場するのは南北朝時代のこと。六角氏頼が北畠顕家の攻撃を防ぐために観音寺に布陣したことが、『太平記』に記されている。その後もたびたび陣所が置かれ、城郭としての整備は段階的に行われたと見られている。修築の記録が1530~50年代に集中しており、おそらくこの頃に石垣を多用した佐々木六角氏の居城として大幅に改築されたと考えられる。
観音寺城は繖山全体に郭をめぐらせた、中世の山城としてはきわめて突出した規模を持っていた。正確な数は分からないが1000箇所以上の郭(城郭内を役割や機能に応じて区画した場所のこと)があり、その多くが石垣で囲まれていたのではないかと見られる。城郭建築に本格的に石垣が使用されるようになるのは、安土城の築城以降とされているが、観音寺城は本丸部分だけでなく山全体に石垣が配置されている点も注目される。

 山頂部には本丸をはじめとして池田丸、平井丸、布施淡路丸といった重臣たちの屋敷地が並ぶのだが、これらの郭は城内でも特に面積が大きく、中には本丸をしのぐ規模のものもあり、六角氏の主従が契約関係に近いものであったことの証拠だと指摘されている。また昭和45年(1970年)の発掘調査では、茶器や中国産の陶磁器などが多く見つかっている。戦国時代の連歌師・谷宗牧は観音寺城を訪問したときのことを、2階の座敷で「数寄の御茶湯」のもてなしを受けたと『東国紀行』に記述している。これらのことから、麓に居館があったものの、平時は山上で生活を営んでいたのではないかと推測される。 

 永禄6年(1563年)に起こった六角氏と家臣たちとの内乱、いわゆる「観音寺騒動」は蒲生定秀・賢秀親子の仲介などにより収束するが、六角氏の当主権限を縮小する「六角氏式目」が制定されることとなった。この観音寺騒動は、六角氏のみならず南近江の国人の勢力衰退へとつながっていき、永禄11年(1568年)、上洛途上の織田信長が六角氏を攻撃。観音寺城の支城である箕作城、和田山城は1日も立たずに落ちてしまい、驚いた六角義治と父・義賢は観音寺城を放棄して甲賀に落ち延びた。その後、佐々木六角氏が歴史の表舞台に返り咲くことはなかった。

 六角親子が観音寺城を捨てたのは、防御面に不安を感じたためだといわれる。しかし一方で、観音寺城自体は堅固な要塞であったが家臣たちが事前に織田側に寝返っていたという見方もあり、観音寺騒動以来の家内の混乱を信長によって突かれたのではないかとも考えられている。
 観音寺城はどんな城だったのか、そこにいる人たちはどんな生活をしていたのか、実態を解明するための史跡観音寺城跡石垣基礎調査が平成20年(2008年)からスタートしている。

(取材日:平成22年10月27日)

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