圓満院庭園・大津市園城寺町
圓満院庭園・大津市園城寺町
名称 | 圓満院庭園(えんまんいんていえん) |
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URL | http://www.enmanin.com/ |
文化財指定等 | 庭園は国指定名勝、宸殿は国の重要文化財 |
所在地 | 滋賀県大津市園城寺町33 |
電話番号 | 077-522-3690 |
拝観時間 | 午前9時~午後4時30分 |
定休日等 | – |
拝観料 | 500円(30名以上の場合1人400円、併設の大津絵美術館も) | ※平成23年9月現在 |
~歴史ある門跡寺院の庭園~

大津市園城寺町にある圓満院門跡は日本に現存する十七の門跡寺院(後述)の一つ。平安時代に、村上天皇の皇子悟円法親王によって開創されたといわれている。長く天台寺門総本山園城寺の本坊であったが、現在では単立寺院となっている。
国の名勝の指定を受けている庭園は宸殿の南側に広がる。東に鶴島、西に亀島を有する池泉鑑賞式の書院庭園で、奥の築山は自然の地形を利用し桜や松の古木、ツツジやサツキ、モミジやカエデなどが植えられている。作者、作庭時期とも正確な資料は残っていないが、相阿弥の作とされ、宸殿が京都御所より移築された正保四年(1647)頃に現在の庭園の形になったのではないかと考えられている。

庭の中央には鶴島と亀島の2つの島を持つ東西方向に長い池があり、この池が宸殿の西側へと廻り込むことで庭が豊かな雰囲気を持つようになっている。また、池畔には多くの石組みが施され、築山一帯は枯れ滝や大きな立て石などがあり雄大な庭園風景を作り出している。
春には山桜が咲き誇り、散った花びらはみごとな花筏を作り上げる。梅雨の時期となると山のほうから一部の地域で天然記念物の指定を受けているモリアオガエルが産卵にやってくるそうだ。また秋の紅葉もさることながら、冬の雪景色は素晴らしいものがあるという。
庭園は宸殿を南側へ回ると見ることができる。大きく開かれた縁側に光が差し込み、少し離れた位置から庭を眺めると額縁で切り取られた一枚の絵画のように見ることができる。また、宸殿からだけでなく西池にかけられた渡り廊下でつながっている本堂から庭を眺めれば縁側から眺めるのとは違った趣がある。

圓満院は門跡寺院だが、これは代々皇族や摂関家など身分の高い者が出家して住職となった寺院で平安時代、宇多天皇が任和寺に入室したことが始まりとされている。
本来「門跡」とは師から弟子へ法脈を伝える「門葉門流」の意味で、法統の継承者を指す言葉として使われてきた。それが室町時代以降に、皇族や摂関家の子弟が出家したものによって相承される特定の寺院を指す称号へと変化した。また江戸時代には、『宮門跡』『摂家門跡』『准門跡』と三門跡の分類が確立している。圓満院門跡はそのうちの宮門跡にあたり、現存するのは京都の三千院、大覚寺など国内に17ヶ寺しかない。

創建は寛和三年(987)村上天皇の皇子、悟円法親王によると伝わっており、圓満院門跡は現門跡の奥野秀道大僧正で57世に及ぶ。
本堂は池にかけられた渡り廊下の先にあり、本尊の秘仏の不動尊と歴代天皇の御位牌が奉安されている。
また、宸殿(しんでん)は国の重要文化財となっており、桃山建築の中でも優れたもので書院造りの典型とされる。寛永十八年(1641)に明正天皇の旧殿を下賜され、正保四年(1647)に現在の場所へ移築したもの。長らく元がどのような建物であったのか不明であったが、昭和二六年から行われた宸殿の修理によって明元和五年(1619)、後水尾天皇に入内した徳川和子(二代将軍秀忠の息女、のちの東福門院)のため徳川氏が造営した女御御所のお局を移築したことが明らかとなった。
宸殿には八十面あまりの金碧濃彩な障壁画がのこされている。当時活躍した狩野派一門によって描かれたものであると考えられている。しかし、移築時に他の建物のふすまが混入する、何年もの間にふすまが入れ替わっているなど、移築当時のままのふすま配置が保存されている状況ではないという。現在、障壁画は京都国立博物館が所蔵する。ここで見ることができるのはその複製で、実物を写真撮影し、デジタル画像処理を用いて色調を忠実に再現、複製専用の和紙に出力したものをふすまに加工して再現したものとなっている。
三井寺への参拝には訪れるが、圓満院門跡へは訪れない人が多いという。もう一足のばしてはどうだろうか。宸殿を通りぬけ目の前に広がる庭園は日の光がこぼれる温かみのある空間だ。ここでしばし座し庭を眺めると、四季の移り変わりをじっくりと楽しむことができるだろう。