彦根城天守・彦根市金亀町
彦根城天守・彦根市金亀町
名称 | 彦根城天守 |
---|---|
URL | http://www.city.hikone.shiga.jp/hikonejo/index.html |
文化財指定等 | 【国宝】 ・天守、附櫓及び多聞櫓 【国指定重要文化財】 ・天秤櫓・太鼓門及び続櫓・西の丸三重櫓及び続櫓・二の丸佐和口多聞櫓・馬屋 中堀より内側については特別史跡。平成20年度近江水の宝に選定された |
所在地 | 彦根市金亀町1 |
電話番号 | 0749-22-2742(彦根城管理事務所) |
開場時間 | 8時30分~17時 |
定休日等 | 無休 |
料金 | 大人600円、小中学生200円(玄宮園と共通) | ※平成22年10月現在 |

数々の工夫や意匠が施され、古い城郭の姿を残す名城
慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で徳川家康方が勝利し、論功行賞と武将の配置換えによって佐和山城にやってきたのが徳川四天王のひとり、井伊直政である。直政の死後、家老・木俣守勝によって城の移築が検討され、慶長9年(1604年)7月1日に、彦根山で築城工事が開始。幕府からは6人の奉行が派遣され、近隣諸国の大名が動員されるなど、彦根城築城は非常に大規模に行われ、完成まで急ピッチで進められた。材木や石材などを周辺の佐和山、長浜、安土、大津などの古城や敏満寺などの廃寺から集めて再利用し、工期を圧縮したと言う。これほどまでに完成が急がれたのには理由がある。西には豊臣家から恩顧をこうむった大名が多く、幕府としては彦根城を西国監視の拠点として扱い、彼らの動向に目を光らせようとの目論見があったからだ。途中、大坂冬の陣・夏の陣で中断を余儀なくされるものの、元和8年(1622年)までに城郭がほぼ完成する。大坂の陣後の後期工事では、堀・土塁・櫓などの各施設や家臣の屋敷などの工事が、彦根藩単独で実施された。

城とは本来、軍事施設であり、彦根城も内湖に面した彦根山の自然地形を活かし、優れた防衛機能を有していた。しかし長く平和が続く江戸時代がやってきて、彦根城は一度も戦を経験することはなかった。太平の世で彦根城は軍事施設としての意味を失い、次第にシンボル化していく。天守や櫓など、防衛のための建物は“物置”になり、城内は数人の番兵が巡回するだけだったという。
だが江戸幕府が倒れると、各地の城が「旧体制の遺物」として破壊されていく。彦根城もその標的となり、城郭の一部が破壊されてしまったが、明治11年(1878年)の天皇巡幸の際、大隈重信や地元の人々の進言で天守と櫓の一部が保存されることとなった。

松本城、犬山城、姫路城の天守とあわせて「国宝四城」と称され、国宝に指定されている彦根城天守は、3階建て3重の屋根で構成されている。規模としては比較的小さなものだが、屋根は「切妻破風(きりつまはふ)」「入母屋破風(いりもやはふ)」「唐破風(からはふ)」、3種の破風を組み合わせた、変化に富んだ美しいものだ。「破風」とは屋根の端に付けられた三角形の部分のことで、天守の外観的な美しさに大きな影響を与える。2階と3階には「花頭窓(かとうまど)」がある。窓の上枠が花の形のような曲線(花頭曲線)を描く窓を花頭窓と呼ぶ。本来は禅宗寺院の様式として中国大陸から入ってきたものであるが、城郭建築にも用いられるようになる。ただし2階にも花頭窓があるのは、非常に珍しい。3階の「高欄付き廻縁」は、寺社建築に由来するものだといわれている。手すりつきの廻縁は寺院や神社の建物における格式の高さを示すために付けられていたものだったが、織田信長が安土城の天主(天守)最上階に取り付けた以降は、高欄付き廻縁が城の格式を示す象徴として取り付けられていったものと見られている。
天守は附櫓(つけやぐら)と多聞櫓(たもんやぐら)が連結している複合式天守で、上に望楼が乗せられた望楼型天守の構造である。天守の部分は建築材を詳細に調査した結果、もともと5階建て4重屋根の天守の資材を再利用して移築したものであることが判明した。井伊家の歴史を書き記した『井伊年譜』にある「天守は京極家の大津城の殿守也」との記述から、元は大津城天守だったとも考えられている。強引に高さを縮めたためか、外観からはややずんぐりむっくりとした印象を受ける彦根城の天守だが、独特の美と細部まで施された意匠は、城郭建築における極めて重要な資料である。

彦根市教育委員会文化財課の三尾さんに、天守や櫓の内部まで公開されていることについてお聞きすると、「できるだけ多くの人に彦根城の建物に触れていただいて、400年も前に建てられた彦根城とその歴史に思いを馳せてもらえればと思っています。そこから『歴史的遺産を守りたい』という気持ちが芽生えてきたら素晴らしいですね。城下町の整備を進め、町並み保存にも力を入れていきますので、多くの人の協力とご理解をいただきたいと思います」と、思いのこもった答えが返ってきた。
(取材日:平成22年10月8日)