伝統再発見

穴太衆積み・大津市坂本~その1

穴太衆積み・大津市坂本~その1

基本情報
名称 穴太衆積み
URL http://www.geocities.jp/awata_i/(粟田建設HP)
文化財指定等 粟田純司さんは平成12年「現代の名工」表彰
所在地 大津市坂本3丁目11-29(粟田建設)
電話番号 077-578-0170(粟田建設)
営業時間
定休日等
料金
※平成22年10月現在

~安土城の普請で名を馳せた穴太衆の伝統を受け継ぐ~

第14代粟田純司さん(写真左)と第15代当主粟田純徳さん(同右)。数々の施工例写真や賞状が匠の技を物語る。

第14代粟田純司さん(写真左)と第15代当主粟田純徳さん(同右)。数々の施工例写真や賞状が匠の技を物語る。

 古くから交通の要衝であった近江の国では、時代の節目ごとに日本の針路を決定付けるような数々の歴史ドラマが繰り広げられてきた。なかでも覇権を巡って幾多の戦乱が巻き起こった戦国時代の近江には、武将たちが死守しようとした無数といえるほど多くの城が築かれていた。
 戦国時代のおわり、「天下布武」を唱えて上洛しようとした織田信長は、中世を通して近江国守護の地位にあった佐々木六角氏の本拠地、観音寺城を攻略すると、そのすぐ麓に絢爛豪華な天守閣を従えた名城、安土城を築く。それまでの城郭にはほとんど見られなかった総石垣造りの安土城は、安土・桃山時代から天下泰平が訪れる江戸時代初期の慶長年間にいたるまでの、いわゆる“築城ブーム”ともいえる時代に手本とされた城だ。
 その後の城郭建築に計り知れない影響を与えた安土城。この天下の名城の石垣を築いたのが、現在の大津市穴太に集住していた「穴太衆」と呼ばれる石工集団だった。
 安土城を築き、石垣普請で天下に名を轟かせた石工集団「穴太衆」。穴太衆が積み上げた石垣のことを、その名を冠して「穴太衆積み」という。実は、織豊政権以降に築かれた現存する城郭のうち8割にも上る城の石垣が、「穴太衆」たちによって築かれたものといわれている。

屋号の入ったのれんとともに立つ粟田純司さん。明治6年に「桶万」という屋号を持った。

屋号の入ったのれんとともに立つ粟田純司さん。明治6年に「桶万」という屋号を持った。

 そんな優秀な技能集団、「穴太衆」の技術を、三百年以上もの間守り伝えてきた人たちが大津市の坂本にいる。日本で唯一、穴太衆積みの技術を代々受け継いできた粟田家の方々だ。粟田家の現当主、第14代粟田純司さんは、平成12年(2000年)に古式穴太衆積みの技術継承者として、日本でただ一人、「現代の名工」にも選ばれた石匠だ。現在、「株式会社粟田建設」の会長として、また「文化財石垣保存協会」代表として幅広い活動を続けている。
 純司さんによると、粟田家の初代・喜兵衛は、十二、三歳の頃、石工見習として徳島城の普請にかかわり、その後穴太衆とともに坂本に移り住んだと伝えられる。享保2年(1717年)に阿波屋喜兵衛として坂本で創業。江戸時代を通して粟田家は、比叡山・延暦寺や坂本の里坊周辺の石垣修復などに携わっていたそうだ。
 穴太衆の起源について純司さんは、「滋賀里から坂本にかけては古墳が多く、渡来系の石工技術者らによって築かれたと思われます。比叡山が開山されると、彼らは後に「三千坊」と呼ばれるまでに増えた寺院の石垣を積み上げていたようです」と語る。ただ、穴太衆のもととなった石積みの技法は、5~6世紀に渡来した百済系の石工集団に由来するという説や中国から帰国した僧侶たちが持ち込んだという説などがあり、その真相は実際のところ定かではないという。【その2に続く】
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